馬場信浩氏
大原保人コンサートによせて
私が「エイティワンクラブ」の一隅に席をとってもらったのは六年前のことになりますでしょうか。
さして期待してクラブに入ったわけではなかったのです。私の日本での身元引き請人(近代造形今村和雄社長)がごく自然にクラブへの階段を上がるのについていっただけのことでした。
そこはなんの変哲もないクラブに思われました。多少変わっているのはドラムにピアノ、そしてベースがでんとあり、店の装飾としてはずいぶんと贅沢で凝ったものだと酔った私には思えたものでした。
やがて静にスイングをはじめたトリオに私は酔いの醒めていくのを感じていました。サウンドはそっと私の心に忍び込んできました。懐かしいジャズの名曲をならべてくれていたのです。それまで吠えるようなアメリカのロックに辟易していた私は生き返る心地を味わいました。音は美しくありました。が、それは痛くも甘くもあり私の郷愁を呼び覚ましてくれたのです。音は悲しいまでに澄明なものでした。
私はいつしかピアノを叩く大原保人に激しい羨望を感じていました。やがてわけの分からない嫉妬に変貌していくのに時間はかかりませんでした。その夜の私は不機嫌そのものに見えたにちがいありません。今村社長は、「店で何か不都合があったのか」と盛んに訊いてくれました。不都合どころか、私は大原保人が作り出すサウンドに打ちのめされていたのです。ありていに言えば一人になりたい衝動にかられていたのです。幸いクラブの近くにあるホテルに部屋をとってもらっていた私は、部屋に駆け込むなり明かりを消して千葉の夜景に浸りました。耳には今しがたまで聴いていた名曲のフレーズ、あれはコール・ポーターの、これはナットキング・コールの、そうフランク・シナトラの、としっかりリフレインされていたのです。
人は時に、予期せぬ残酷さを見せることがあります。それが唐突であればあるほど人の心を引き裂き、感動を深く沈潜させます。その夜の今村氏と大原氏はまさに、運命の淵を覗かせる地獄の番人のようでありました。
さて私には忘れられない人物がいます。歌手の水原弘です。亡くなってもう何年になりますか…
やがて文学賞をとりテレビの司会者となった私に水原弘の存在は手の届くところとなったのです。ところがインタビューを実現させなかったのです。それは、がらにもないことでが、私の含羞、のなせるものでした。インタビューはもっと先にのばすべきだともう一人の私がひきとめたのです。小説家としてさらに有名になって水原に会うのだ、と自分に言い聞かせたのです。しかし、これは微笑んだ運命の神を怒らせたようでした。一度逃したチャンスはもう二度と私にめぐってきませんでした。私の恋焦がれた歌手水原弘は生き急いで天にめされたのです。そして日本の歌謡曲界を変えた男として長く記憶されるべき歌手水原弘は今、人々から忘れさられようとしています。
その水原弘をピアノで支えたのが誰であろう大原保人だったのです。それを知るのはずっと後のことです。ジャズを唱わせたら絶品だった水原をステージで、のせにのせまくったのが大原保人だったのです。
大原は自らの経歴の多くを語ろうとはしません。すべての勲章を笑顔に隠して鍵盤を叩きます。来日したアメリカのジャズメンが「エイティワン」に立ち寄ったことがあったそうです。誇り高きジャズメンです。「千葉に何があるのだ?」くらいの認識しかなかったはずです。ところが大原のサウンドに触れるやいなや彼等の顔色が変わりました。大原に魅せられた彼等がホテルに楽器をとりに走り、朝までジョイントした話は有名です。
六年前、大原保人のライブに打ちのめされた私の勘はまちがいありませんでした。大原のサウンドには人生をじっと見つめるような響きがあったのです。
私はジャズのなんたるかを知るの者ではありません。ただサウンドを愛する者です。しかし、これだけは言えると思います。「ジャズは人生だ」、と。
大原保人は「人生を奏でて生きていく」でしょう。ならば私も「人生を切りとる文学」を残さなければなりません。これは重く長い戦いです。
したがって私はもう運命の神にさからいません。なぜなら神は私に人生を切り取る戦友大原保人を与えてくれたからです。この戦友に大いに嫉妬し羨望するつもりです。ですから大原保人のコンサートでは彼を慕い寄る人々の中に混じって嫉妬し羨望し彼のサウンドをエンジョイし感動するつもりでおります。いけないでしょうか。
今日会場に来られたみなさんに、私を「大原保人を愛する仲間」に入れてくださるようお願いしておきます。
それから天国の水原弘さん、あなたを忘れない男が少なくとも二人はいることをそちらで憶えておいてくださいよ。いつか大勢で墓参りにいくからね。そのとき大原保人のピアノで「黄昏のビギン」を唄ってよ。きっとだよ。
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