日下圭介氏

ジャズと私と大原保人

 目からうろこが……、いや、耳からうろこが落ちた。大原保人とのジャズピアノを初めて聴いた時だ。驚いた。

 私が小学校に入る前の年、日本が太平洋戦争に敗れた。私が育った小さな田舎町にも、進駐軍がジープでやってきた。チューインガムをばらまきながら、彼らが口笛で吹いていたのがジャズで、それが私たちとジャズの出会いだった。カモン・マイハウス、ツー・ヤング、テネシーワルツ……。奔流のように流れ込んできたおびただしいハリウッド映画で見るアメリカは、底抜けに強く明るい。薩摩芋すら満足に口にできず、慢性栄養失調だった私たちにはまばゆいばかりだった。ジャズはまさしくアメリカのテーマミュージックに映ったものだ。むろん英語の歌詞は片鱗も理解できなかったが、そのうち江利チエミらの翻訳の歌がラジオから流れ出すと、私たちの愛唱歌になった。
 しかしやがてジャズは私から遠ざかった。
 ジャズと再会したのは1960年代、大学生の時である。引きあわせてくれたのは映画だ。「危険な関係」でジャズメッセンジャーズ、「大運河」でモダンジャズ・カルテット、そして「死刑台のエレベーター」のマイルスデビス。衝撃を受けた。これらがアメリカの音楽だという印象は希薄だった。これらの映画が、いずれもフランス映画だったからかもしれない。それもあろうけれどもアメリカに対する認識が変わり始めていたこともある。
 1960年夏といえば、学生を中心とした大衆運動が炸裂した時だった。いわゆる安保戦争である。私が属していた商学部はノンポリというより、真ん中よりやや保守的と学内では受け止められていた。しかし連日のように、国会にデモを繰り広げた。初めての経験だった。アメリカはまばゆい国ではなくなった。
 モダンジャズもあの底抜けの明るさは消えていた。マイルスデビスのあの憂いに満ちたトランペットの響きが衝撃的だったのをはっきり憶えている。
 とにかく学生の間にモダンジャズ熱は一気に燃え上がった。四畳半一間の下宿に、溢れるほどの学生がたむろし、深夜放送のジャズを聴きながら、トリスウイスキーを酌み交わし、朝まで語り明かしたものだった。
 新宿の、確か紀伊國屋の裏辺りだったと思うけれど、「木馬」というジャズ喫茶があった。ライブではなくレコードを聴かせる店である。そこに通い、一杯六十円だかのコーヒーで、何時間も粘ったことも懐かしい思い出だ。
 大学を出て、地方回りの新聞記者をしていたころ、青森県の三沢に駐在したことがある。米軍航空基地の街である。すでにベトナム戦争が勃発していた。F4ファントム戦闘機が連日飛び立ち、新しくやってきた。酒場で会う米兵たちは、戦争を疎んでいた。エスケープしたいとはっきり口に出す者もいた。彼らはエラ・フィッツジェラルドやアニタオディのボーカルを好んだ。祈りを感じさせるゴスベルソングふうの歌である。
私のモダンジャズに対する思いは、薄れることはあっても切れることなくその後も続いた。こそこそ買ったレコードが、いつの間にか棚一面を埋めた。聴き返すと、程度の差こそあれ、どれも哀切を感じさせる。ジャズとは憂愁の音楽だという勝手な思いが、私の胸のうちで固定化していった。
 それも悪くはない。涙を誘う悲劇も人の心をうつ。
 けれどもいつしか私はジャズから離れていた。歳のせいかもしれない。悲痛な局面は、現実の中でたっぷり味わってしまった。いまは元気にしてほしい。
 そんな時に大原保人と出会った。
 驚きました。
 こんなに明るいジャズがあったのか。耳からうろこが落ちた。私の心は少年のように高揚した。
 大原さん。今後も飛び切り明るい音楽を奏でてください。人生の折り返し点を過ぎた私の応援歌にさせてください。

リンク広場に戻る